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掲示板の趣旨から離れた議論の継続は『場外乱闘掲示板』

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4071 Re4066:相手の論をでっち上げる山本弘信奉者へ 冒険風ライダー mail 2003/05/12 21:46 この話題へのレスはここをクリック!上の書き込み欄は”新規ツリー”用!
gdu55-161189.gd.kcn-tv.ne.jp
<既存のテンプレートを作品に用いる事と、「何も考えずに使う」事の間には14万5000光年ほどの隔たりがあると思いますが? 部分否定を全否定と言い張る方には言っても詮無い事かもしれませんね。>

 あなたも本当に分かっていませんね。山本弘が主張する「何も考えず」の定義は、あちらの掲示板のNo.9685で山本弘自身が「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」とこれ以上ないほど明確な「全否定的な定義」を提示しているではないですか。
 そしてこの定義を元に山本弘は「『時限爆弾に赤と青のリード線』とか『脱出寸前に車がエンストを起こす』なんてシーンを平然と書く脚本家は頭が悪い」だの「テンプレート通りの物語を書く奴は、創作者として失格」だのといった主張を展開した挙句、「既存のテンプレートを作品に用いる映画制作者」を「頭の悪いバカ」と断定しているのですから、論の主旨や流れから言っても、山本弘の作品評価は「既存のテンプレートを作品に用いる=何も考えていない」という図式を基準にしていなければ論として全く成立しえないではありませんか。第一、この図式を映画評価の前提にしていないというのであれば、山本弘は一体何を根拠に「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」の映画制作者達を「頭の悪いバカである」と評価していることになるのですか?
 本当に山本弘を擁護したいのであれば、せめて山本弘の発言内容をもう少し熟読・理解した上で私に反論して頂けませんかね。擁護すべき山本弘的理論の論旨ひとつ正確に理解できていないようでは、擁護される山本弘も迷惑でしかないと思うのですが。


<既存のテンプレートを用いる事で作品を親しみやすいものにする事と、オリジナリティを発揮する事。この二つは果たして止揚不能な矛盾でしょうか? 卑しくも創作者を名乗るならばその程度の事は弁えておくべきですし、あたかも解消不能な対立概念であるかの如く言いたてることで自作が擁護されていると知ったら、マイケル・ベイも多少は心を入れ替えるかも知れませんな。>

 それは私ではなく山本弘に対してこそ主張するべきことですね。山本弘こそが「既存のテンプレートを用いる事で作品を親しみやすいものにする事」に対して「他人が考えたシーン、しかも使い古されたシーンをコピーするのは、自分では何も考えてないってことだから」などという、何ら客観的根拠のない独り善がりな定義を勝手に行った挙句、ただそれだけをベースにして「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」の作品および映画制作者達を「オリジナリティがない」「創作者として失格」「頭の悪いバカである」として一方的に斬り捨てている張本人なのですから。
 山本弘が卑しくも創作者を名乗るならば、「既存のテンプレートを用いる事」と「オリジナリティを発揮する事」とが両立するものである事くらいは当然弁えておいて然るべきことであるはずですし、それをあたかも解消不能な対立概念であるかの如く言いたてることで自分の作品や自分自身が「オリジナリティがない」「創作者として失格」「頭の悪いバカである」などと糾弾されていると知ったら、マイケル・ベイもそれこそ「頭の悪いバカな奴もいたもんだ」と爆笑してしまうかも知れませんね〜。


<山本氏の主張は「作品」は作品として「工業製品」は工業製品として評価しようと言うものです。
ですから「天文学には占星術という娘がいた。出来の良い娘では無かったが、娘がせっせと稼がなければ母親は飢えてしまっただろう」方式の長々とした擁護は最初から無意味ですが?>

 だから「作品は作品として、工業製品は工業製品として評価しよう」と主張し、「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」を「工業製品」と定義しているはずの山本弘自身が、「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」を「作品」の基準で評価した挙句、その製作者達を「オリジナリティがない」「創作者として失格」「頭の悪いバカである」と評価していること自体がおかしい、と私はNo.3986とNo.4061で何度も繰り返し主張しているはずなのですけどね。
 そもそも、山本弘の「たとえ話」は「『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』がハリウッドのアクション大作映画マニュアルに忠実に作られている典型的かつテンプレート的な大衆娯楽映画である」ことを示す例としては適切であっても、「そのような映画を製作した人間は頭が悪いバカである」ということを立証する根拠になど全くなっていないのですよ。私がNo.3986とNo.4061で述べたように、マニュアルに忠実にエンターテイメント作品を制作することにもそれなりの技術や責任意識というものが必要不可欠なのですし、テンプレートだらけの作品にもエンターテイメント作品としての存在意義があるのですから。そして、これを踏まえた上で山本弘の論に従うのであれば、「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」は「工業製品(テンプレート作品)」の判定基準に基づいてその良し悪しが評価されるべき、ということになるはずですし、論の流れから言っても当然そのような結論が導かれなければならないのです。
 にもかかわらず、山本弘は自分が提示した「たとえ話」の構図を自分で全く理解することなく、また「テンプレート作品の存在意義」を少しも顧みることすらもなく、「作品」の評価基準に基づいて「工業製品」を糞味噌に評価した挙句、「たとえ話」とは全く無関係な「オリジナリティがない」「創作者として失格」「頭の悪いバカである」などという評価を「どこからともなく」持ち出してくるわけです。だからこそ、山本弘の「たとえ話」は「テンプレート作品を制作する人間は頭の悪いバカである」という結論を導く論拠としては辻褄が合わないし、もしそんな「たとえ話」本来の道筋にすら反する愚劣な論法が万が一成立するというのであれば、山本弘が「マニュアル万能主義」と「マニュアルに忠実に働く人達に対する職業差別意識」という誤った考えを抱いていることになるということを、私は今まで繰り返し論じてきたのです。
 つまり私は、山本弘が提示する「たとえ話」にあえて乗った上で、山本弘の論が致命的に間違っていることを立証しているわけで、その私に対して「(私自身も前提とし、かつ破綻していると主張している)山本氏の主張」なるものをただひたすら振りかざしたところで、そんなものは反論にも何にもなってはいないのですよ。だからこの件にするあなたの山本弘擁護は最初から無意味ですが?


<そもそも、作品を主観ぬきで評価する事など可能だとお思いですか? 完璧な客観性等という物は幻想に過ぎません。せいぜい努めて客観的に判断材料を集め、評価するのが精一杯。最終的な判断は主観的に行う他無いでしょう。あなたの要求は不当なものであるばかりか、例によってご自身を例外としておられるようですね。少なくとも氏の判断基準は(作中の描写という)事実に基づくもので、意図的に文意を捻じ曲げる事で捏造されたものではありません。>

 私が予め予防線を張っておいたのに、わざわざ誤読して私が言ってもいない主張を勝手にでっち上げないでくれます? 私はNo.3986で以下のような主張を行っていたはずなのですがね↓

<世の中には人間の数だけ「主観的価値観」というものが存在するわけなのですから、他人に自説を認めさせようとするのであれば、「山本弘個人の主観的価値観」を肉付けする「客観的根拠」が必要であることなど自明の理であるはずではありませんか。「個人の主観的価値観」でもっともらしく作品を論評するだけならば今時小学生でもできます。ましてや「と学会会長」である山本弘ともあろうものが、泣き喚く子供のワガママのような主張を行ってどうするのでしょうか。>

 つまり私は、「『山本弘個人の主観的価値観』で作品を論じること【自体】」を否定しているのではなく、「『山本弘個人の主観的価値観』【だけ】で作品を論じること」を問題視しているわけです。そして仮にも「と学会会長」だの「映画評論の専門家」だのといった肩書きを名乗っているのであれば、自分の主観的価値観を絶対視してそれに依存する「だけ」でなく、万人に正しいと納得させられるだけの客観的根拠「も」伴わせた上での作品評価を行うべきだ、と私は主張しているのですよ。「肉付け」という言葉でもその文意は充分に読み取れるでしょう。
 だからここの文章も、私に対する反論としては最初から完全に無意味なシロモノでしかありませんね。


<あなたの主張は要約すれば「山本弘は「科学考証」と「他の評論家の意見」を判断基準に「アルマゲドン」を評価した。だからけしからん」というものです。
仮にもSFの体裁を取った映画作品で、より適切なものさしがあれば是非教えて頂きたいものですね(「スターウォーズ」のような明らかにFTのテンプレートを用いた作品ならともかく)。以上を根拠に「アルマゲドン」を「工業製品」と判断する事は、適切な評価と言えるでしょう。>

 ムチャクチャな要約であり主張でしかありませんね。誰もそんな事言ってなどいませんし、最後の文章に至っては前述のように全く無意味な反論でしかないのですが。
 今回の件に関して私が最初からずっと一貫して主張していることは、

「山本弘は、SFフィクション作品である『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』を、作品中でも特に重要視されているわけでもない【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】を見ただけで『これらの映画製作者は何も考えていない頭の悪いバカである』と評価するのに、何故同じカテゴリーに属し、かつ同じくらい【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】が多数存在する田中作品については何ら批判の声を上げようとしないのか? これはダブルスタンダードではないのか?」

 ↑というものですし、それに対して提示された山本弘の主張が、どれもこれも「山本弘個人の主観的価値観【のみ】に依存しただけの、何ら客観的根拠を伴っていないシロモノ」でしかないために、ダブルスタンダードの正当化どころか、件の「インディペンデンス・ディ」や「アルマゲドン」評価における「このような映画を製作した人間は頭の悪いバカである」という主張の「万人を納得させられるだけの説得力を持つ作品評価基準の論拠」にすら全くなっていないからこそ、山本弘の主張が問題視されるわけです。
 それと、もし仮に山本弘が「『仮にもSFの体裁を取った映画作品』では『科学考証』と『他の評論家の意見』を判断基準にしなければならない」などと考えているのであれば、山本弘が大絶賛している「仮にもSFの体裁を取った」銀英伝に対しても、当然同じ基準を当てはめて評価するべきなのではありませんか? それをしないということは、やっぱり「山本弘の作品評価基準はダブルスタンダードである」ということになるのではないのですかね?


<ええ、"映画を映画とも思わない"という素晴らしい評価を得ておられる「専門家」ですけどね(^^。
専門家にももちろん優劣はある。こんな当たり前の事をわざわざ断らなければいけないのですか?>
<「悪貨が良貨を駆逐する」かの如き素人評論を心底憎んでおられるなら、優れた専門家の下した評価と、バカ映画に涙した人々の感想を同列に扱うべきではありません。撮影術や物語構成術に関する知識と経験、こうしたものが鑑賞能力に全く何の影響も及ぼさないと考える方がどうかしているのです。それこそ映画や評論に対する冒涜ではありませんか。>

 あなたも本当に山本弘同様に「頭が悪いバカ」としか言いようがないですね。自分で書いていて気づかなかったのですか?
 あなたの主張によれば、「専門家の意見が門外漢より重視されるのは当然の事」だし「優れた専門家の下した評価と、バカ映画に涙した人々の感想を同列に扱うべきではない」のでしょう? にもかかわらず「専門家にももちろん優劣はある」ということが、何故「撮影術や物語構成術に関する知識と経験」がはるかに豊富な映画制作の「専門家」に対して映画評論家という「素人」があれこれと「評価という名の感想」を並べる行為を正当化することに繋がるのですか? あなたの主張に従えば、たとえ優劣があろうがなかろうが、あくまで「専門家」は専門家、「素人」は素人なのですから、専門家の優劣に関係なく、「専門家」の意見の方が「素人」のそれより当然優先されて然るべきでしょうに。
 第一、「優れた専門家」だの「劣った専門家」だのといった判定は、一体誰が、どんな基準に基づいて行うというのでしょう? すくなくとも、映画制作に一度も携わったことのない「映画評論家という名の素人」がそれを行ったら、それは構造的に矛盾していますし、ダブルスタンダードもいいところでしょう。山本弘の論法を「専門家だから」という理由で正当化する行為は、結果としてこのような論理の破綻をきたすことにもなりかねないのですがね。
 前の投稿でも言いましたが、作品評価に専門家も素人もないのですよ。「映画評論家の作品評価」など、所詮は人間の数だけ存在する数多くの作品評価のひとつに過ぎませんし、「専門家」だからという理由「だけ」でそれを読んだ赤の他人が賛同しなければならない理由もありません。定量的に量れるわけでも、何らかの確固たる法則などが存在するわけでもなく、評価基準も評価手法も千差万別な作品評価に「これこそが絶対的に正しい模範解答」と呼べるものなど原理的に存在しえないのですから当然のことです。
 だからこそ、映画に限らず、エンターテイメント作品評価で自分の価値観を共有しない不特定多数の人間からの同意や賛同を得ようとするのであれば、自らの主観的価値観「のみ」に依存することのない、客観的根拠を伴った作品評価基準や観察眼に基づいた理論を展開する必要があるのです。そして、それができて初めて、エンターテイメント作品の評論家は「作品評価の専門家」として周囲から敬意を払われるのであって、それのできない「映画評論家」とやらがいくら肩書きや自分の専門性を強調したところで、そんなものは嘲笑と哀れみの対象にしかなりません。そして山本弘の「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」評価は、まさに山本弘の「専門家」としての地位と名声を自ら貶める愚劣で醜悪で滑稽なシロモノでしかないのです。
 山本弘の愚劣な作品評価およびその作品評価基準を「専門家だから」という理由だけで内容を検証することなく免罪し、正当なものであると認めてしまうことこそ、本当の意味での映画や評論に対する冒涜ではありませんか。こんな当たり前の事がわざわざ懇切丁寧に説明されなければ分からないというのですか?


<判断基準と情報源を明示することで、氏は充分に責任ある発言をしていると言えます。その上更に根拠を示せ、と迫るのは立証責任の転嫁と言うものです。それに反対意見を述べるのであれば、氏の文意を捻じ曲げるなどと言う姑息な手段に拠らず、「判断基準と情報源」の誤りを指摘されるがよろしいでしょう。>

 私の文章を誤読しまくりながら、本来の文意を徹底的に捻じ曲げた誤解釈を当てはめて見当ハズレな反論ばかり展開しているあなたが、私に対して「氏の文意を捻じ曲げるなどと言う姑息な手段に拠らず、『判断基準と情報源』の誤りを指摘されるがよろしいでしょう」などと説教するのも笑止な限りでしかありませんが、情報源はともかく、判断基準についていつ山本弘が「充分に責任ある発言をしている」のですか?
 そもそも、今回山本弘が本当に回答しなければならないのは以下のようなテーマを持つ問題に対してであるはずでしょう↓

「なぜ『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』を【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】のみをベースに評価しなければならないのか?」
「なぜ【杜撰な科学考証】や【テンプレート的作品描写】が存在するだけで『このような作品を作った人間は何も考えていない頭の悪いバカである』と評価されなければならないのか?」
「なぜ『インディペンデンス・ディ』や『アルマゲドン』と同様の評価基準が田中作品には全く適用されないのか?」

 で、私はこれまでに行われた山本弘の掲示板投稿を今まで検証してきたわけですが、山本弘の主張のほとんど全てが、ただ単に「山本弘個人としてはそう考えたから」といった類の主観的価値観の表明レベルで終わっているものばかりではありませんか。そして、唯一何とか客観的な理論らしきものを出してきた例の「たとえ話」の件にしたところで、実際には自説を立証する論として何ら機能してなどいないことは私が今まで散々述べてきた通り。あなたが血相変えて主張している「山本弘は専門家だから……」にしたところで、結局のところそれは「山本弘の論」自体には何ら客観的な根拠も論としての一貫性や正当性も存在しないがために「肩書き」などに頼らなければならなくなっている懐事情を図らずも暴露してしまっているようなものです。
 こんな体たらくで「山本弘が充分に責任ある発言をしている」などと言えるわけがないでしょう。そして上記3つのテーマに対する明確な回答なしに「杜撰な科学考証」だの「テンプレート的作品描写」だのに「充分に責任ある発言をし」たところで、そんなものに何の意味もありはしないのです。前の投稿でも言いましたが、前提と結論が間違っているのに、過程だけを固めても全く無意味なのですから。
 繰り返しますが、山本弘が本当に回答しなければならないことは、「インディペンデンス・ディ」「アルマゲドン」評価における「前提および結論」の「客観的根拠を伴った正当性の立証」と、田中作品に対して犯しているダブルスタンダードの「客観的根拠を伴った否定の立証」なのです。そこを履き違えないで頂きたいものですね。


<最大の問題点は、あなたの主張が山本氏の発言への反論、批判ではなく、山本氏が「発言する事」自体への非難になっていることです。
それは、自由な批判精神を必要とする評論からは、最もかけ離れたものだと言わざるを得ませんね。>

 この文章はそっくりそのままあなたにお返ししましょう。何しろ、自分と異なる意見を持つ人間というだけで、誤読と誤解釈に基づいて私が言ってもいない主張をでっち上げ、見当ハズレな反論を展開した挙句、最後には「ネットの害虫」などというレッテルを貼って憚らないというのですから。
 山本弘を擁護したいと考えるあまり、自分がどんなにバカな事を主張しているのか、もう少し頭を冷やして考え直してみることですね。



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